今月は孔子様の一生を振り返りたいと思います。諸説はありますが、BC552 に魯の国に生まれました。正式な夫婦関係の両親の間に生まれた子供ではありません。父は三歳ころに母は 17 歳のころに亡くなっています。母親は巫女だったという説もあります。今でいえばシングルマザーに育てられています。
若い時には貧乏でいろいろな仕事も経験しました。例えば、家畜の世話係や倉庫番のような仕事もしたようです。いわば非正規雇用です。そうした環境の中でもたぶん教育熱心な母親の助けもあり、一生懸命に学問に励んだものと思われます。当時の中国は春秋時代で多くの国が覇権を競い合っており下剋上も盛んでした。各国は優秀な人材をスカウトしていました。孔子様は出世して、57 歳の時に魯の法務大臣にまでなりますが、しかし政権争いに敗れ辞任しています。リストラになってしまいました。
そのあと弟子を伴って、就活のために約 14 年間諸国を回りました。結局、定職に就けませんでした。就活で回っている間には、病気で死にそうになったり、襲われて命を奪われそうなったり、頼りにしていた弟子や息子が亡くなったりして落ちこんでいます。64 歳の時にまた魯の国に戻り、弟子たちに学問を教えて過ごし、76 歳で亡くなりました。こうして見ると恵まれた順調な一生というよりは、苦労の多い一生だったように思えます。それが、またさらに論語を身近なものに感じさせているのではないでしょうか。孔子様の一生は、下記の論語の章句にすべて言い表されています。
今月の論語
[漢文] 子曰、吾十有五而志乎學、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而從心所欲、不踰矩。・・為政篇
[読み] 子曰わく、吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順(した)がう。七十にして心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えず
[意訳] 孔子様がおっしゃった「私は 15 歳の時に学問を志した。30 歳の時に学問で身を立てる事が出来るようになり、40 歳で学ぶことに迷いがなくなり、50 歳の時に自らの天命を知った。そして 60 歳の時には人の言葉を素直に聴く事が出来るようになり、70 歳になった時には自分の心のままに行動しても人の道を踏み外す事が無くなった。」矩とは、法やルールのことです。先日、論語の勉強会で 75 歳方と話をした時に「70 歳を過ぎると自然と矩は超えなくなるものだよ」とおっしゃっていました。なるほど。
論語を読んで中国がすごいと思うことは、今から 2500 年以上前に、すでに教えることが職業として成立していることです。私の認識では日本では、寺小屋などで武士や儒学者など教えることが職業として確立したのは、江戸時代に入ってからです。それまでは知識は、僧侶や公家の専有物であり権威の源泉でした。当時、僧侶は最先端の知識人でした。
<余談 1>
今月は、101 歳になられた日野原重明先生の講演会と、月刊「致知」5 月号に載っていた、96 歳の現役の女 性画家、入江一子先生の入江一子シルクロード記念館(阿佐ヶ谷)に行きました。
http://iriekazuko.com/日野原先生は、相変わらずお元気で、一時間以上たったまま、はっきりした声と確かな記憶力で講演されていました。今までに数多くのの講演を聞きき話に引き込まれることはあっても、舞台に立った瞬間に、存在だけで周りの人を引き込むすごさは、日野原先生は別格です。100 歳の時に 10 年書けるスケジュール帳を買ったとおっしゃっていました。最後に、今日はこれだけは覚えて帰ってくださいと言っていた言葉をご紹介します。
「自分の人生は、自分でデザインできる」動物は走り方を変えられない。鳥は飛び方を変えられない。しかし人は生き方を変えることができる。101 歳の日野原先生の言葉ですから、説得力があります。
入江先生は、具合がすぐれずに休まれていましたが、出てきて絵の解説をしてくださいました。制作途中の絵も展示してありました。最近の絵ほど色彩が鮮やかになっています。致知では、「芸術の道に終わりはない。百歳に向けて新たに挑戦をする」と言われています。
今月は、二人合わせて 198 歳の方とお会いしたことになります。いくつになっても成長を考えているから、いつまでも若くて元気なのだと感じました。このような方々にお会いすると、自分の未熟を思い知るとともに、まだまだ若いと思えるメリットがあります。
<余談 2>
九段に用事があったついでに、前から一度行こうと思っていた『遊就館』を訪れました。16:30 までの開場でしたので、駆け足での見学になりました。若い人も意外なほどいました。吉田松陰の直筆の書も展示されています。戦争の記録は、見ているだけで胸が詰まります。
http://www.yasukuni.jp/~yusyukan/