多くの方が共通して、人生のある時点で、自分の来し方を振り返り、自分が享受してきた幸運を数える姿勢が見られる。このエッセーでかねてより指摘してきた。これに当てはまる記述が、経済学者・猪木武徳先生の新著『自由の思想史』のなかにも見られる。
その部分を、紹介しよう。
“知の教育はできても徳義を教えることは容易ではない。(中略)それよりも、若者が「憧れるような先生」の「思い、言葉、行い」が最大の効果を持つのではないか。自分が受けた小学校から大学までの教育を振りかえると、いずれの時期にも、「憧れるような先生」あるいは「気になる先生」に幸運にも巡り合えたからだ。”
以下は、以前のエッセイの抄録である。
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過去のエッセイで歴史家・入江昭氏や曾野綾子氏の著作に「その点、私は実に恵まれていた」「…私の幸運である」「…ことも幸いであった」「私が一番恵まれていたのは…」「私は友達運が本当によかった」など、自分の来し方を振り返り、幸運を数える姿勢が共通して見られることを述べた。
ジャーナリスト松山幸雄氏の『国際派一代』にも、これと軌を一にする記述が多く見られる。「名伯楽に出会えた、というのは、運以外の何ものでもない」「たいへんラッキーでしたね」という具合だ。
そして松山氏は、日本人がいかに幸運かについても、国家の統合の問題がないこと、敗戦の副産物として、戦わすして自由を獲得し、それを高いレベルで享受していること、経済大国なのに軍事大国の道を選んでいないこと、平等と安全がかなり浸透していくこと、など広い視野から論じている。(『国際対話の時代』)
J.C.コリンズは「窓と鏡」の比喩で、「成功を収めたときは窓の外を見て、成功をもたらした要因を見つけ出す(具体的は人物や出来事が見つからない場合には、幸運をもちだす)。結果が悪かったときは鏡を見て、自分に責任があると考える(運が悪かったからだとは考えない)」と指摘している(『ビジョナリーカンパニー②飛躍の法則』)。
「…私の幸運である」という記述には、これからも注目して行きたい。