日本語で出版されている本のなかには、英語からの翻訳になるものが相当数存在し、日本の読者に大きなインパクトをもたらしている。私も、『老人と海』(ヘミングウェイ)、『エリアス随筆』(ラム)といった文学書から、『ビジョナリー・カンパニー』(コリンズ)、『最後の授業』(ランディ・パウシュ)などの経営者まで、翻訳書の恩恵に浴している。翻訳者諸氏には、衷心より感謝を申し上げる。最近でも、『老人と海』の福田恒存氏や『最後の授業』の矢羽野薫訳の名訳に舌を巻いている。具体的には、次つぎのようなくだりだ。
“Everything about him was old except his eyes and they were the same color as the sea and were cheerful and
undefeated.” 「この男に関するかぎり、なにもかも古かった。ただ眼だけがちがう。それは海とおなじ色をたたえ、不屈な生気をみなぎらせていた。」(『老人と海』福田恒存訳)
“The brick walls are there for a reason. They’re not there to keep us out. The brick walls are there to give us a chance to show how badly we want something.” .「レンガの壁がそこあるのには理由がある。僕たちの行く手を阻むためにあるのではない。その壁の向こうにある「何か」を自分がどれほど真剣に望んでいるか、証明するチャンスを与えているのだ。」(『最後の授業』矢羽野薫訳)
英語から訳された本を読む際、重要なところには傍線や下線を引き、マーカーでハイライトする。それとは別に、気になった訳語に破線を付し、欄外に「レ」とか「Eng」と書きつける。機会があれば原書の英文を調べようというマークだ。翻訳者の努力の跡を偲んでみようという意思表示である。翻訳の世界で凝った原文の翻訳には、「10人の翻訳者がいれば、10種類の訳文がある」とのことだ。(経済学の世界では、「10人の経済学者がいれば、経済政策は11ある」という。)そこで、ある著名翻訳者がエッセーで説いている。翻訳本の日本語にいぶかしく思うところがあっても、原書の原文にあたってみようなどという「不心得な了見」は起こさないように、と。
しかし、今日、該当する原書をアマゾンで2-3日で入手できるようになり、この新種の愉しみはやめられない。かくして、この「不心得な了見」は、今後も私の読書の一定の位置を占め続けるにちがいない。