最近のテレビ報道、新聞記事の多くを占める話題の一つは、「議会における野次問題」だろう。 この問題は、人により捉え方が違い、そのことでまた新たな問題を生じている。
そもそも、問題とはなんなのだろうか? 人が問題を認識するとはどのようなことなのだろうか? そこから突き詰めていかないと、この問題(?)は解明できない。
問題の定義は幾通りもあるが、一般的には、「問題とはあるべき姿と現状との差異(ギャップ)である」 と定義される。ここで問題となるのは、一つの問題状況において①人によりあるべき姿が異なることと 、②そもそもあるべき姿が不明確でギャップを認識しない人がいるということである。
① については、あるべき姿が人により異なれば、それは重大な問題だとか、 それは大した問題ではないとか、問題は認識するものの、それに対する対処は人により異なる。
なぜ、このようなことが起こるのは、人が描くあるべき姿が異なることに起因する。先に挙げた「議会における野次問題」を例に挙げて言えば、“議会において野次があること自体が問題である” と問題を認識しる人もあれば、“これは、野次とかといった問題ではない、 この発言がセクシュアルハラスメントである、それこそ問題だ」とあるべき姿は人により異なる。
② については、たとえばそもそもあるべき姿が日頃から重視していないようなケースにおいては、 「なぜこれが問題なの」という認識で、そもそもギャップを認識しないといったことが起こる。 もっとも、これは、問題から逃れるために(われ関せずの立場に立ちたいために )「気が付かなかった」「聞かなかった」など認識しなかったことを強調することも頻繁に行われる。
正常な組織においては、何か問題状況が発生すると、あるべき姿を設定し、問題を共有し、問題解決にあたることが行われる。
マスコミの報道を見る限り、問題状況を起こした議会においては、②の立場を強調して、 問題解決にあたる姿が希薄であると想定される。この事態を問題として捉え、問題解決にあたるか、 それとも仕方のないことだと問題視しないことで済ませるのかは、新たな問題である。