10 月 2-3 日の両日、インドネシアのバンドンで、PMI インドネシア大会 Symposium & Exhibition (SymEx)2013 が開催された。第3回とのことで、日本 (3 人)や香港、マレージア、ニュージーランドなどの海外からの参加者含め、総勢 220 人ほど。キーノート以外には、2つのトラックが走る。
総じて、参加者とボランティアの世代が若いことが印象に残った。平均すると、日本より 20 歳ほど若いように見受けられる。インドネシアには開発の勢いと貧しさが混在しており、「われわれは発展途上国なので…」という、参加者の発言には微妙な響きを感じる。
イベントの合間に「バンドン会議」(1955 年)の会場に行ってみた。第二次大戦後にアジアとアフリカの諸国が集まって、新たな国際秩序をつくろうという志から開かれた会議で、正式には「第1 回アジア・アフリカ会議」という(ただし、第 2 回以降は開かれなかった)。当時の米ソの冷戦の緊張や核戦争の脅威をうけて、ネルー (インド)、スカルノ(インドネシア)らのリーダーが指導して実現したもの。「第 3 世界」という言葉の発祥になったともいわれる。インドネシア独立からわずか10年というから、スカルノらの行動力には敬服する。終戦後の日本からも高碕達之助らの 13 名の代表が参加しており、13 人目には藤山噯一郎の名前が見られる。出席した加瀬俊一外務相参与(後の国連大使)は、その時の模様を語っている。「会議の主催者から、出席の案内が来た。日本政府は参加を躊躇していた。アメリカへの気兼ねもあったが、何分現地には反日感情が強いに違いない、と覆っていた。私は強く出席を勧めて遂に参加が実現した。出てみるとアフリカからもアジアの各国も『よく来てくれた』『日本のおかげだ』と大歓迎を受けた。日本があれだけの犠牲を払って戦わなかったら、我々はいまもイギリスやフランス、オランダの植民地のままだった。それにあの時出した『大東亜共同宣言』がよかった。大東亜戦争の目的を鮮明に打ち出してくれた。 『アジア民族のための日本の勇戦とその意義を打ち出した大東亜共同宣言は歴史に輝く』と大変なもて方であった。やっぱり出席してよ かった。日本が国連に加盟できたのもアジア、アフリカ諸国の熱烈な応援があったからだ。」
こういう歴史に触れるにつけ、歴史観・世界観の重要性を改めて感じた。