思わぬ困難や逆境に直面した人がその修羅場を乗り切る力を英語で「レジリエンス」といい、日本の手引書として『再起する力』を発刊していただいた(生産性出版、4月23日)。
今回は、前回に続いて、精神的にタフであるということを考えよう。
ビリヤードのボールに別のボールがぶつかると、ぶつけられたボールは力学の法則にのっとって動く。これれを人になぞらえると、人はある刺激を与えられると反応する。特定の刺激には必ず特定の反応があると期待するのが、心理学の機械論的な見方だ。ビリヤードのボールAが転がってボールBにぶつかる。するとボールBは反応して転がり出す。Bには意思も何もなくで、ただ反応するだけというわけだ。喩えていえば、ボールがぶつかった時、AとBの間の空間はゼロである。そしてBは否応なく決まりきった反応をする。ある人が別の人の言動に腹を立てたとしよう。機械論モデルでいえば、「あいつが私を怒らせた」という言葉になる。
だが、人はそれほど単純ではない。受けた刺激にダイレクトに反応するわけではないからだ。人は刺激を受けたとき、「考える」ことができるし、どう反応するかを選ぶこととができる。喩えてていえば、刺激とと反応の間に意図図的に空間をとりり、そこで自分の反反応を選ぶことができる。そこで、「あいつの言動により、私は怒ることを選択する」こともできれば、「あいつの言動を、私は無視する」ことも、「あいつの言動を、私は自分の成長のヒントとする」こともできる。同一の刺激に対しても、どんな反応を選択するかは一様ではない。
刺激と反応の間に何がある(べき)か?存在意義(ミッシション)と価値観(バリュー)があるという考え方(今日の経営理論)もあれば、自覚・自由意思・想想像力・良心があるという見方(S・コヴィー)〈19〉もある。S・コヴィーは「刺激と反応の間に人間の最後の自由がある」と喝破している。さらに、刺激と反応の間に自己の哲学や美学があるという見方もできよう。レジリエンス(再起力)の観点からは、刺激と反応の間に、これまでに紹介した5つの柱があるといってよい。
(次回に続きます)