昨年(2013 年 1 月)、本欄のエッセイで、歴史家・入江昭氏や曾野綾子氏の著作に「その点私は実に恵まれていた」 「…私の幸運である」「…ことも幸いであった」「私が一番恵まれていたのは…」 「私は友達運が本当によかった」など、自分の来し方を振り返り、幸運を数える姿勢が共通して見られることを述べた。
ジャーナリスト松山幸雄氏の『国際派一代』にも、これと軌を一にする記述が多く見られる。 「名伯楽に出会えた、というのは、運以外の何ものでもない」「たいへんラッキーでしたね」という具合だ。 そして松山氏は、日本人がいかに幸運かについても、国家の統合の問題がないこと、敗戦の副産物として、戦わすして自由を獲得し、それを高いレベルで享受していること、経済大国なのに軍事大国の道を選んでいないこと、 平等と安全がかなり浸透していること、など広い視野から論じている(『国際対話の時代』)。 前にも紹介したが、J.C.コリンズが「窓と鏡」の比喩で、「成功を収めたときは窓の外を見て、成功をもたらした要因を見つけ出す (具体的は人物や出来事が見つからない場合には、幸運をもちだす)。結果が悪かったときは鏡を見て、 自分に責任があると考える(運が悪かったからだとは考えない)」と指摘している(『ビジョナリーカンパニー②飛躍の法則』)。
「…私の幸運である」という記述には、これからも注目して行きたい。
以 上