私は、何回か中国のベンチャー経営者の日本企業への視察ツアーを、コーディネートしました。日本を代表する幾つかの企業への訪問+研修+観光・買い物をします。会社訪問は企業の方のプレゼンの後に質疑応答を行いました。国民性の違いか学ぼうとする情熱の差か、いつも活発な質疑が繰り広げられることに驚かされます。買い物は秋葉原に行きます。一時間ぐらいの間に、新製品の家電類を両手に抱えきれないほど持って出てきます。皆さんは他にも洋服や日本製品の日常品を買うことをとても楽しみにしています。
◎ブランドとしての「メイド・イン・ジャパン」
2009,年の日本のGDPでは、かろうじてアメリカについで世界第二位でしたが、2010年は中国に抜かれて世界第三位になることが確実です。他のアジアの国々も急速に国力をつけてきています。私は仕事でアジアの国々を回りましたが、いずれの国々も、活気があり伸びざかりの国の勢いを感じました。
日本が世界の中で担ってきた役割が確実に変化してきています。アジアの国々を生産拠点と考えて、消費拠点を日本や欧米としたマケッティングの考え方は時代遅れになりつつあります。アジアの国々も消費拠点としてとらえる位置づけになってきました。もう一度、日本を生産拠点として見直す時期にきています。これからの資源のない日本が世界の中で担っていける役割を真剣に考える時期です。
日本人として日本で住んでいると、当然日本製品に囲まれているので意識しませんが、海外から日本を見ると「日本」という1つの企業の「メイド・イン・ジャパン」という1つのブランドのように感じます。今回のトヨタのリコール問題は、いろいろな見方はありますが、米国議会の公聴会で、トヨタの社長に「あなたは日本のメイド・イン・ジャパンの信頼を損なったと思わないか?」と追求していた姿が印象に残っています。トヨタやソニーはもちろん日本を代表するグローバル・ブランドですが、大きく見れば「メイド・イン・ジャパン」のブランドの1つではないでしょうか。「メイド・イン・ジャパン」は、工業製品だけではありません。日本食レストランや日本酒や青森のリンゴなどの食料品も世界に進出しています、セコムや宅急便などのサービス業などもアジア地区で展開しています。漫画に代表されている日本のポップカルチャーも「メイド・イン・ジャパン」に含まれます。ネットの世界では、アニメ系をコンテンツに含めると、世界からのアクセス数が急速に増えるそうです。今後益々、もの以外のサービスや文化やライフスタイルや価値観なども「メイド・イン・ジャパン」の一翼を担って世界に出て行くはずです。
岡崎で「サムライ日本プロジェクト」を立ち上げ、地元の複数の老舗の一品を「サムロックプランド」で統一して世界に発信している安藤竜二氏の講演を聞く機会がありました。ブランドの定義は「消費者との約束のあかし」だそうです。バックのルイビトンやセリーヌ、お酒のヘネシー、時計のタグ・ホイヤーなど多くのブランドを抱えているLVMHのトップのインタビュー記事を昔読みました。御社の一番の財産はブランドですか?と質問された時に「違います。ブランドを維持する力です」と答えていたことを記憶しています。「ブランドは構築するのは長い時間がかかるが、崩れ去るのは一瞬」とも言います。ブランドは作るのも大変だが、維持するのは更に、大変だということです。「メイド・イン・ジャパン」を日本の統一ブランドとして意識し、世界に発信し、守り、育てていく必要を感じています。
日本の人口は2100年には現在の行く半分の6000万人、2500年には一人?になると聞いた覚えがあります。(個人的には、これが日本と政治が取り組むべき一番の課題で、移民は根本的な解決になりません)そんな環境の中で、資源のない日本は、「メイド・イン・ジャパン」で生きていかなければならないのではないでしょうか。「メイド・イン・ジャパン」を育てて、積極的に発信することにより、世界の一員としてのバリューを持ち貢献していけます。「メイド・イン・ジャパン」の品質や信頼を求められているのは企業だけでなく、日本人として生きる全ての人に求められている課題だと考える必要があります。
余談
今月は先月見ようと思っていて見れなかった『コールデン・スランバー』を見ました。普通の会社員が、ケネディ暗殺の犯人に仕立てられたオズワルトのように、日本の首相暗殺の犯人にされてしまい、逃げ回ります。物語は都合の良い展開ですが、スピード感が有り楽しめました。警察が証拠を捏造して、マスコミが大々的に報道して犯人扱いする中、主人公の友人達と家族は最後まで、「信頼」して助けます。どんな時でも友人を「信頼」していけるかと、自分の問題として問われた時には、答えに躊躇してしまいます。
最近の冤罪の事件を見ても、検察や警察やマスコミが、常に正しい判断をして、正しい報道しているか疑問に思っている人が増えています。ただ最近は力のある組織からの一方的な情報操作だけでなく、インターネットの世界で、個人としても主張できることは、少しはフェアな環境です。そのような環境は「Web民主主義」だと思っています。権力のない人でも意見を言える場は、ずっと存在してもらいたいです。センサー社会といわれ、個人の会話、移動経路、買い物、姿などありとあらゆる情報が、技術の発達で捕捉できる社会になっていますが、人間同士お互いが疑心暗鬼で監視しあうような社会にはなって欲しくないと願っています。
メルマガの「宋メール:今も中川昭一さんに電話をかける」(←ご興味があれば検索してください)に、心打たれました。最近のマスコミのように一方的に執拗に人を叩くのは、マスコミが非難するいじめを行っている人達と精神構造に大きな違いがあるのでしょうか。イエス・キリストは、ユダヤの法に従って娼婦に石を投げつけて罰しようとする人達に「自分は罪を犯したことがないと思う人間は、石を取って私に投げつけなさい」と言い、だれも投げつけることが出来なかった話が聖書にあります。正論でもって人を批判することは、簡単ですし論理的には間違っていないのかも知れませんが、それだけでは、人からやさしさと思いやりを奪ってしまいます。