高校の古文の授業で誰もが読んだ「つれづれ草」の一節がある。授業でその解説をしてくれた先生が、われわれ生徒に質問をされた。「さて、皆さんだったらどうしますか?」と。その一節の現代語訳次のようなものだ。
五二
仁和寺の坊さんが、年寄りになるまで石清水八幡宮に参詣したことがなかった。それをもの足らぬことと思って、ある時、思い立ってひとり歩いて参詣した。山麓にある極楽寺、高良などの末社を拝んで、これだけのものかと早合点して帰ってしまった。そうしてかたわらの人「年ごろ、気にかかっていたことができました。聞きしにまさる尊いものでした。それにしてもお参りする人ごとに、みな山へ登ったのはどういうわけであろうか。自分も行ってみたくはあったけれど、お参りが目的で山の見物に来たのではないと思ったから、山までは行かなかった」本堂が山上にあることには気づかないで、こう言った。
何でもないことでも案内者はあってほしいものである。(佐藤春夫訳)
この坊さんが誤解していることは明らかだ。それについての古文の先生の「皆さんだったらどうするか」という問いに、われわれ生徒たちは異口同音に、間違いは正すべき、との意見を述べた。すると先生は「うーん。どうだろうね」とだけ答えて、そのやりとりは終わった。
さて、あなたなら、坊さんの間違いを指摘し、誤解を解くだろうか?
この問いは、長く私の心にとどまっていた。そこで最近、京都で現地調査を試みた。
仁和寺は京都盆地の北西の東山地区にある。金閣寺は龍安寺などの名刹が立ち並ぶ地域だ。一方、石清水八幡宮は、京都の南のはずれ、男山という山の上にあり、大阪との境目だ。両者の距離は24-25キロはあり、片道だけで徒歩で半日かかる。坊さんはおそらく朝早く仁和寺を発ち、石清水八幡宮まで徒歩で行った。そして当初の目的を果たして、仁和寺に帰った。そして、本人は満足している。
その坊さんに間違いを指摘するのは、坊さんの心をいたずらに乱すことにならないだろうか。人の心に土足で踏み込む行為かもしれない。古文の先生の「どうだろうね」という反応は、そのあたりのことを勘案したからかもしれない。
「プロジェクト・マネジャーの時間の9割はコミュニケーションで割かれる」という(『PMBOKⓇガイド』(第6版))。その中には、相手方であるステークホルダー(例えば、スポンサー)が誤解していることにこちらが気づくことがあるかもしれない(もちろん、こちらが誤解していることもある)。では、それを指摘すべきか? こういう問いに正解がひとつあるとは限らない。正解が複数あることもあれば、正解が全くないこともある。
プロジェクトやビジネスの現場では、こういう問いを受け止めて、自分の頭で考え、答えを出し続け、前に進みたい。そうすることを通じてプロジェクト・マネジャーやビジネス・パーソンとして成長できるのであろう。