“おもてなし”と“マナー”

2015/07/15 中 憲治

 2020年の東京オリンピック。新国立競技場の建設について議論が喧しい。

これに関して、述べたい事項が幾つもあるが、それは次の機会にしておいて、オリンピック開催決定を機に日本の各方面で持て囃されている「おもてなし」について私論を述べたい。 「おもてなし」WEB検索していると興味ある次のWEBにたどり着いた。PMAJオンラインジャーナル編集長(当時)岩下氏の投稿である。以下、その概略。

[おもてなしとは]
「もてなし」に「お」を付けた丁寧語。「もてなし」の語源は「ものを持って成し遂げる」 ここで「もの」とは目に見える「もの」目に見えない「もの(コト)をさす。目に見える「もの」とは お客様が五感で感知できる視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚で感知できるもの。目に見えない「もの(コト)」 とはそれ以外で知覚できる感覚で気遣い、手配り、身配りなどに起因するものだといえる。
[おもてなしの実例]
石川県の和倉温泉「加賀屋」ではミッションとして「おもてなし」を挙げ、「宿泊客が求めていることを、 求められる前に提供すること」と定義している。「顧客ニーズに先回りして応える事」といえる。「おもてなし」がこのようなものであると理解した時に果たして日本人が「おもてなし」の意味を理解し 、実現できているのかが気になる。その様な時、次のWEBにたどり着く。日本経済新聞電子版に掲載された記事である。
ピーター・バカラン氏の「ここが残念、日本人のマナー」。著者は日本在住40年以上のイギリス人 「CBSドキュメント」のキャスターも務めたラジオDJである。記事には、バカラン氏によれば、 英国人にとってマナーとは「自立した人間として、他人に不快な思いをさせないための自発的な行動」であるとする。一人ひとりが最大限他人を尊重する。同時に自分も他人から尊重してもらえるようされる普段から周りに 良い印象を与えるべく努力する。よって、日頃から意識せずとも他人を気遣った行動ができる。 これがマナーである定義している。バカラン氏によれば、日本人のマナーとは 「決められているから仕方なく守っているルール」に映るとされる。ビジネス現場では日本人はマナーの優等生と映るが、 仕事を離れるとマナーを忘れた行動がよく見かけられる。具体的な例として、街中で人にぶつかっても 「済みません」とも言わないなど、他人を尊重する姿を微塵も感じられない行動が多い。と述べている。
マナーを考える時に大事なのは、日頃からの心がけであり、英国人は、子供のころから、聖書にある 「人にしてもらいたいと思うことはなんでも、あなた方も人にしなさい(「マタイによる福音書」7章12節) という一節を「黄金律」として教え込まれている。そのため、「このような時に自分だったらどうしてもらいたいか 」を常に考えて行動することを日常のこととして行うことができるようになる。と述べている。
この二つの記述から、ある出来事を思い出した。それは、「おまわりさんに叱られるよ」という言葉である。子供がマナーに違反すること(ルール違反)をしていると母親が発する言葉である。 「その行動は他人に迷惑をかけるからやめなさい」ではなく、 「その行動は、ルールに違反するからやめなさい。ルール違反は罰せられるよ」もっと言えば、 「私は構わないけど、ルール違反と取り締まるおまわりさんは許さない」とも受け止められる。 ルールを守ることさえ、罰せられるからよくないと教えているようなものである。本来のマナーを守ること、 すなわち、「他人が不快な思いをすることは、行うことではない」との社会の鉄則を教えているのではない。 私は、日本の社会において、一つの行動の是非を問う時に、「何故:WHY」を問うことがなく、「どのように行動すべきか:HOW」を教え込むことが優先されていることが大きな要因であると考えるが、 如何なものだろうか?「おもてなし」を本来の意味で発揮するためには、常に「何故:WHY」を考えて、 他人の立場に立った行動をとれるように日常化することが求められていると思う。それが名実ともにマナーの向上につながる。